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静岡地方裁判所 昭和63年(行ウ)1号 判決

静岡県富士市吉原四丁目五番一六号

原告

市川和代

右訴訟代理人弁護士

藤森克美

東京都千代田区霞ケ関一丁目一番一号

被告

右代表者法務大臣

前田勲男

右指定代理人

伊藤一夫

志村勉

鈴木朝夫

島井不二雄

高柳昌興

白井正彦

奥谷悟

大西信之

木村晃英

主文

一  原告と被告の間において、原告名義で昭和五八年八月二日付で提出された修正申告にかかる昭和五六年分金一七二万六九六〇円、昭和五七年分金四五万五一〇〇円の各所得税債務はいずれも存在しないことを確認する。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文と同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、原告名義で昭和五八年八月二日付で提出された昭和五六年分及び昭和五七年分の所得税の各修正申告書(以下「本件修正申告」という。)にかかる滞納税額が昭和五六年分につき金一七二万六九六〇円、昭和五七年分につき金四五万五一〇〇円及びこれらに附帯する過少申告加算税があるとして、原告に対し、昭和六二年八月ころ、富士税務署係官をしてこれらの税を早期に納めるべき旨の納付指導をした。

2  しかし、本件修正申告は、原告の離婚係争中の夫市川康夫(以下「康夫」という。)に本来属すべき所得を原告の名義を冒用して杉山登美子が原告に属するかのように申告したものであり、納税義務者ではない。

よって、原告は、被告に対し、本件修正申告にかかる昭和五六年分金一七二万六九六〇円、昭和五七年分金四五万五一〇〇円の各所得税債務はいずれも存在しないことの確認を求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因1の事実は認め、2の事実は争う。

三  抗弁(本件修正申告による租税債権の確定・杉山登美子の代理による申告)

1  原告は、昭和五五年三月、静岡県富士市吉原二丁目七番四号に屋号を「ブティック大仙」と称する婦人服等の販売店(以下「大仙」という。)を開業し、これを経営していたものであるが、その経理に関する一切の権限並びに昭和五五年分ないし昭和五七年分の所得税の確定申告、本件修正申告及びその他税務に関する一切の代理権を実妹である杉山登美子(以下「登美子」という。)に授与していた。

2  登美子は、右授権に基づき、原告に帰属する大仙の昭和五六年分の事業所得に関する昭和五七年三月一五日付確定申告書及び昭和五七年分の所得に関する昭和五八年三月一五日付確定申告書の作成をそれぞれ税理士保科嘉一に依頼し、同税理士において所得金額等及び原告の住所氏名等を記入して確定申告書を作成し、これに登美子が原告名下にかねてから市川家の認印として預っている印を押捺して各確定申告書を完成させ、これに基づき、富士税務署長に対し、別表1、2各記載のとおり確定申告をした。

3  富士税務署員は、昭和五八年七月ころ、昭和五五年分ないし昭和五七年分の大仙の事業所得につき税務調査を行った結果、昭和五六年分及び昭和五七年分(以下「係争各年分」という。)の所得金額について過少申告が認められたため、登美子を介して原告に対して修正申告書の提出を求めた。

登美子は、前記1の授権に基づき、右税務署員の指摘に従った内容の係争各年分の原告名義の修正申告書を作成し、これに基づき、富士税務署長に対し、別表1、2各記載のとおり昭和五八年八月二日付で修正申告をした。

4  以上によれば、本件修正申告は、原告からその権限を与えられて登美子が行ったものであるから、原告を納税義務者とする租税債権は、別表1、2の各係争年分の修正申告・所得税額欄記載の額のとおりに適法に確定している。原告は、右租税債権のうち、昭和五六年度につき金一七二万六九六〇円、昭和五七年度につき金四五万五一〇〇円の各所得税債務を依然滞納している。

四  抗弁に対する認否

1  三1の事実は否認する。

大仙を経営していたのは、原告の離婚係争中の夫である康夫であり、登美子は、康夫から大仙の経理等を任されていた。原告は、大仙において仕入れや販売等を担当していたに過ぎず、その所得は原告には帰属していない。

2  同2の事実は不知。

原告は、登美子から確定申告について何ら聞かされたことはない。

3  同3の事実中、本件修正申告は、登美子が原告名義を用いて行ったことは認め、これが原告の授権に基づくとの点は否認し、その余は不知。

4  同4は、争う。

本件各確定申告及び各修正申告は、実質的所得の帰属者である康夫及びその補助者である登美子が原告の名義を冒用して大仙の租税債務だけを原告に負担させようとしてなしたものであり、原告の意思に基づくものではない。

したがって、右修正申告によって原告の租税債務が確定される謂れはない。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。

理由

一  請求原因1の事実は、当事者間に争いがない。

二  抗弁(本件修正申告によに租税債権の確定・登美子の代理による申告)について

1  成立に争いのない乙第五号証、第一〇号証ないし第一二号証、第一三号証の一ないし三、証人杉山登美子(後記信用しない部分を除く。以下「登美子証言」という。)及び同保科嘉一(以下「保科証言」という。)の各証言並びに乙第一号証ないし第四号証の存在及び弁論の全趣旨によれば、抗弁1の事実中、大仙は、昭和五五年三月に静岡県富士市吉原二丁目七番四号に開業した婦人服等の販売店であること、同2の事実中、大仙の昭和五六年分の事業所得に関する昭和五七年三月一五日付確定申告書及び昭和五七年度分の所得に関する昭和五八年三月一五日付確定申告書の作成は、登美子がそれぞれ税理士保科嘉一に依頼し、同税理士において所得金額等及び原告の住所氏名等を記入して確定申告書を作成し、これに登美子が原告名下にかねてから市川家の認印として預っている印を押捺して各確定申告書を完成させ、これに基づき、富士税務署長に対し、別表1、2各記載のとおり確定申告をしたこと(弁論の全趣旨によれば、右確定申告による所得税は、そのころ登美子が納付したことが認められる。)、同3の事実中、富士税務署員は、昭和五八年七月ころ、昭和五五年分ないし昭和五七年分の原告の名義にかかる大仙の事業所得につき税務調査を行った結果、係争年分の所得金額について過少申告が認められたため、調査に立ち会った登美子に対し、修正申告書の提出を求めたこと、登美子は、右税務署員の指摘に従った内容を各年分の修正申告書用紙に記載し、これに原告の氏名及び住所を記入してその名下に前記市川家の認印を押捺して昭和五六年分及び昭和五七年分の各修正申告書を作成し、これに基づき、富士税務署長に対し、別表1、2各記載のとおり昭和五八年八月二日付で本件修正申告をなしたこと(本件修正申告を登美子が行ったことは争いがない。)の各事実が認められる。

右のとおり、右各確定申告にかかる所得税については、各納付期限までに納付されており、本件で存否が争われている請求の趣旨記載の金額の租税債務が、未だ納付されていない、本件修正申告により増額された所得に対応して増額した所得税分であることは、弁論の全趣旨により明らかである。

ところで、所得税などについて採用されている申告納税制度(所得税法一二〇条など、国税通則法一六条一項一号、二項一号)の下において、申告書記載事項の過誤の是正について修正申告(同法一九条一項)や更正の請求(同法二三条)のような特別の規定が設けられているのは、当該税の課税標準の決定については、最もその事情に通じている納税義務者自身の申告に基づくものとし、その過誤の是正は、法律が特に認めた場合に限る建前とすることが、租税債務を可及的速やかに確定せしむべき国家財政上の要請に応ずるものであり、納税義務者に対しても過当な不利益を強いる虞れがないと認めたからにほかならない。よって、所得税の納税申告につき、自己に帰属する所得があるとして、自らあるいは正当な権限を有する代理人により申告をした者は、その錯誤が客観的に明白且つ重大であって、前記国税通則法の定めた方法以外にその是正を許さないのならば、納税義務者の利益を著しく害すると認められるような特段の事情が存しない限り、単に申告にかかる所得が自らに帰属するものではなかったことを理由としては租税債務を免れないというべきである(最高裁昭和三九年一〇月二二日第一小法廷判決・民集一八巻八号一七六二頁参照)。そうすると、租税債務の存在を主張する被告課税庁においては、その発生原因事実である課税要件事実の存在の主張立証に代えて、右適法な納税申告がなされたことを主張立証すれば足りるというべきであり、具体的課税要件事実の存在及び右特段の事情につき主張立証のない本件においては、争点は、もっぱら、原告を納税義務者として本件係争年分の所得金額を増額修正した本件修正申告を行うについて、登美子が原告からその代理権を授与されていたか否かという点にあると解されるから、以下この点について判断する。

2  前掲乙第五号証、登美子証言及び保科証言、いずれも成立に争いのない甲第七号証、第一六号証の一、二及び乙第七号証、いずれも原本の存在及び成立につき争いのない甲第一号証、第八号証、第九号証、(書込み部分を除く)、第一二号証、第一三号証の一ないし三(書込み部分を除く)及び乙第一四号証、登美子証言により真正に成立したものと認められる乙第八号証、証人市川康夫の証言及びそれにより真正に成立したものと認められる甲第二号証の一、二、弁論全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第一四号証、証人大塩一幸の証言及び原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができ、右各証拠中のこれと異なる部分は採用しない。

(一)  原告と康夫及び登美子の関係

(1) 原告と康夫は、昭和三〇年九月から共同生活を始め、昭和三二年九月一七日に婚姻届出を了し、同年一二月九日には長女裕子をもうけ、また、康夫は昭和三七年には富士市浅間上町七番八号に住居を取得し、以後ここを家族の生活の本拠としたが、原告は、昭和五九年一月三一日に右住居から家出をし、以来康夫とは別居状態となっている。

そして、原告は、康夫を被告として昭和六〇年、静岡地方裁判所富士支部に同年(夕)第二号離婚等請求訴訟を提起し、康夫もこれに対して反訴を提起して応じ、平成四年一〇月ころには、同裁判所において原告と康夫とを離婚する旨の判決(乙第七号証)が言い渡された(その後の経過は不詳である。)。

(2) 離婚訴訟に至る経過は、概ね次のとおりである。

康夫は、婚姻当初は、サラリーマンであったが、昭和三五年一二月に中央紙業株式会社を設立し、同社の経営者として事業を発展させてきた。一方、原告は、昭和四六年に先立つ三年ほどの間中央紙業の仕事をしたことがあるが、同年ころからテラダ洋品店に勤めるようになり、これに伴い、康夫から、家事を疎かにして家庭を犠牲にしていると言われたことがあり、遅くとも昭和四九年ころからは寝室を別にするなど、夫婦関係に破綻を来しており、以後それぞれの思惑から夫婦生活の外形を維持してきたものの、昭和五八年一月ころには、康夫は三度の食事を会社で済ませたり、洗濯物を自分で洗濯するなどしており、他方、原告は、大仙の営業に従事して家庭を顧みることがなく、共同生活の実態もなくなっていた。さらに、原告は、かねてより康夫から生活費として渡される月々の給料と自ら働いて得た収入とで家計を賄った余剰をすべて自己名義の預金にしていたが、昭和五八年九月三日ころ、胆石の治療のために蒲原病院に入院(同年一〇月二二日ころ退院)するに際し、入院中に自己名義の預金が康夫や裕子によって調べられると心配して、事前に預金の払戻しを受け、現金を銀行の貸金庫に預けたり、昭和五九年一月ころ、裕子から後記有限会社大仙の赤字の補填のため金銭の拠出を求められた際もこれを拒絶するなど、康夫らに対して、非協調的で警戒的な態度を露にしていた。

(3) 原告の実妹の登美子は、昭和三六年に原告の勧めで中央紙業に就職したが、昭和五一年に一度解雇されたことがあるものの、その後間もなく同社に復帰し、経理などを担当し、現在も在職している(第一〇回口頭弁論調書・3項)。

(二)  大仙の開業の経緯及び営業の状況

(1) 原告は、昭和五四年ころ、前記テラダ洋品店を辞めたが、それまでの経験を生かしてブティックを開業することを思い立ち、康夫から、いわゆる市川家の家産にするとの約束でその承諾を得て、まず自宅の一室で商売を始め、前記のとおり昭和五五年三月に富士市吉原に「ブティック大仙」を開業した。その開業資金は康夫が出捐した。

(2) 右大仙の営業は、次のようなものであった。

原告が、東京に出向いて商品の仕入れをし、商品は、いったん中央紙業の本社工場内の事務所に送られ、そこで登美子や中央紙業の事務員が大仙の値札(値段は原告が指示)をつけて、大仙の店に運び、これを原告は販売した。

どのような商品をいくらで仕入れ、いくらで売るか、値引きをするかなどは、すべて原告が専決しており、顧客に対する対応も、もっぱら原告が行っていた。

右商品の請求書は、仕入先から中央紙業の事務所に届けられ、それら伝票の処理及び仕入れ代金の支払い等は、中央紙業の経理担当者である登美子が康夫から大仙の経理も担当するように命じられており、同人が処理していた。

商品の売上は、現金払いと掛売り、さらにクレジット払いがあり、現金払いと掛売りにより入金した代金は、常時店に数万円の棚銭を残すほかは、原告が在り合わせの封筒に入れて、伝票と共に登美子に渡し、登美子がこれを小口の経費の支払いに充てたり、決済のために銀行口座に入金したりして、管理していた。また、クレジット払いについては、購入時の顧客の希望のほか、掛売りで代金の支払いが遅延しているものについて、原告が指示して利用させていた。右クレジットについては、クレジット会社との関係では、加盟店契約及び銀行口座の開設は、いずれも康夫の名義で行われており、同人もこれを承知していた。そして、これらの預金通帳は、いずれも登美子が保管していた。

なお、康夫は、昭和五七年四月二五日付で取引先に対して差し入れた取引誓約書(甲第二号証の一及び二)において、納品書、現品及び請求書を中央紙業の登美子宛に送附すべき旨を特に欄外に注記すると共に、代表者欄に自己の氏名を記載し、原告は仕入れ担当者として記載している。

また、昭和五六年一月ないし六月分の給料との名目で、原告に対して金六〇万円が康夫により支払われたことがあるほか、昭和五六年中には、二か月に一回の頻度で、原告など大仙の関係者ばかりでなく、中央紙業の従業員の印鑑の鑑定を依頼した費用がすべて大仙の経費として処理され、また、同年八月一二日には、康夫を意味すると思われる「社長」の出張費用も大仙の経費として処理されている。

(3) 康夫は、大仙を昭和五七年七月一九日に有限会社大仙として会社組織に改めて、いわゆる法人成りをさせ、(以下、単に「大仙」というときは、会社組織に移行前の個人営業形態の時点のものを指して用いることとする。)みずから取締役として代表者になったが、原告は取締役には就任していない。

大仙が右法人成りをした後も、店の営業形態は基本的に右(2)に認定したところと特に異ならなかった。

(4) 有限会社大仙は、昭和五八年三月、裕子を実質的経営者として沼津に支店を出すことになったが、原告はこれに反対し、協力を求められた開業資金も出資しなかった。

(5) 原告は、その後も大仙の従前からの店である有限会社大仙吉原店の営業を行ってきたが、昭和五九年一月三一日に家を出て以降は、これに関与していない。

(三)  税務調査の経過及び状況

(1) 前記のとおり、富士税務署員は、昭和五八年七月二〇日、昭和五五年分ないし昭和五七年分の原告の名義にかかる大仙の事業所得につき税務調査を行ったが、これは大仙のクレジット売り上げが康夫名義の口座に振り込まれているとの情報があったこと及び昭和五七年に大仙が会社組織になったことが理由であった。

右富士税務署員は、事前に原告に連絡を試みたが、連絡が取れず、また、大仙の会計事務を処理していた前記保科税理士に連絡をしてみたところ、中央紙業内の登美子が経理を担当しているので、同人に連絡をすれば判る旨知らされたため、登美子に対して右調査日を告知し、登美子は中央紙業の事務所に関係帳簿類一切があるため、同所に来るように述べた。調査日当日には、登美子だけが立ち会い、原告は立ち会わなかったが、登美子は、税務署員に対し、原告は体調が悪くて立ち会えないが、調査については原告の了解を得ているので疑問点については自分が答える旨を説明した。

調査の結果、売上帳と昭和五七年分の現金出納帳はあったが、総勘定元帳はなく、必要経費や仕入れ金額の記帳については領収書からまとめた科目別明細表のようなものがあるにとどまった。右税務署員は、これらの伝票類や帳簿類を預かって持ち帰り、検討した結果、昭和五五年分については、申告額と調査結果との間に大差がなかったが、昭和五六年分及び昭和五七年分については確定申告額が調査結果よりも過少であると認められた。そこで、右税務署員は、右調査に立ち会った登美子に対し、原告に調査結果を伝えた上、了解が得られたなら修正申告書を提出するように依頼し、調査結果を書き込んだ修正申告用紙を交付した。

登美子は、これに原告の住所氏名を記入した上、同人が預かっている市川家の認印をその名下に押捺して、昭和五八年八月二日付で本件修正申告をなした。

(2) この間、税務署員は、原告本人から直接事情を聴取したり、登美子に対する委任の有無を確認したことはない。

3  登美子の証言等の信用性の評価

ところで、登美子は、当法廷及び前記乙第五号証において、「大仙の実質的経営者は原告である。自分は、原告から経理の一切を任されており、保科税理士に依頼して昭和五五年分から昭和五七年分までの確定申告書を作成してもらっていたが、その都度、所得金額や納付税額について原告に説明をし、原告名義で申告することについても了解を取っていた。本件修正申告についても、税務調査の時、原告は体調が悪いといって立ち会わず、自分にすべてを任せており、税務調査の結果と修正申告に付いては、原告に伝えて了解を得ている。」という趣旨の供述をする。

しかしながら、登美子の証言態度は、前記離婚訴訟及び別件損害賠償請求訴訟(当庁富士支部昭和六〇年(ワ)第七三号)における証言(甲第九号証、第一二号証、第一三号証の一ないし三、乙第一四号証)を通じて、経年による記憶の忘却等を考慮に入れても、曖昧であったり、回避的な部分が多く、具体性に乏しい上、その内容は、前記2認定の各事実から導かれる以下の(一)ないし(三)の各事情にてらしても不自然というほかはないのであり、たやすく措信することはできず、採用しない。

(一)  前記2のとおり、個人経営時の大仙の開業の経過は、原告が開業を希望したとはいえ、康夫が出資し、市川家の家産にする趣旨で承諾したというものであること、登美子は、仕入れ代金の支払いや原告から届けられた売上金の管理等、大仙の経理を処理していたが、これは康夫の指示によるものであること、商品や請求書等は、原則としてすべて中央紙業の本社工場事務室に届けられ、値札等の取付けは登美子や中央紙業の事務員が行っていたこと、クレジット加盟店契約及び払込み口座の開設は、信用上の必要はあるにせよ、康夫の了解の上で、同人名義で行われていたこと、大仙の開業当時、原告と康夫との婚姻関係は、既にほとんど破綻していたことがそれぞれ認められ、康夫自身も前記離婚訴訟においては、原告にブティックをやらせたのは自分であり、大仙の経営者は自分である旨述べている(甲第一号証)。

これらの事実に照らせば、離婚判決において認定されているように、原告が自己中心的で金銭に強く執着し、非協調的な性格により、仕入れ販売等の店の営業を専決して大仙を自己の固有の営業のように振る舞い、また、売上代金の処理についても、封筒に入れて登美子に渡す前に、その一部を勝手に私用に充てていたことが窺われるなどの事情があることは否定できないとしても、そのことから直ちに、その経営及び所得の帰属主体が原告であると推認するには到底足りないというべきである。

むしろ、康夫が、わざわざ中央紙業の経理を担当している登美子に大仙の経理をも命じ、その商品や請求書等を同社の事務所に届けさせたり、これを会社組織に改めたり(しかし、営業の実態にはなんらの変更もなかった。)、さらには、沼津に支店を出して裕子を参画させようとするなどの挙に出ていることは、単に大仙への資金を提出した者として、原告によるその経営に不安をもった故のものであるとは理解し難いのであり、康夫こそ大仙の経営者であって、その経営者を支配しようとしていたことの徴表とも評価し得ないではないのである。

以上によれば、原告と康夫とは、相互に相手を牽制しながら、それぞれの支配の及ぶ範囲で相互に意思の疎通なく大仙の収益を処分していたとみるほかはなく、その所得が最終的にはそれぞれに帰属していたのだとしても、その間には事業の推進についての協力や信頼関係はみじんも見られないから、両者の共同経営と見ることも困難であるし、その所得の具体的帰属の内容についても全く不明である。

(二)  本件税務調査及び修正申告がなされた昭和五八年七月ないし八月の当時、原告は、同年五月ころから持病の胆石が悪化し、注射等の通院治療によりその痛みをこらえながら、大仙吉原店の営業をしていた旨陳述書(甲第一八号証)で述べており、体調がすぐれなかったことは窺われるものの、依然入院はせず、大仙の営業に当たっていた時期である。且つ、税務署員も突然調査に訪れたわけではなく、事前に連絡をしていること、さらに調査結果の伝達や修正申告用紙の交付は、別の日にされていることに鑑みると、登美子において、真実の納税義務者が原告であり、原告に折衝をさせようと考えたのであれば、原告を立ち会わせることに特段の困難はなかったものと認められるから、原告が立ち会わなかったことに関して登美子が税務署員に対してなした説明は、必ずしも十分にして合理的なものとはいい難く、その他、この説明を客観的に裏付ける証拠は存しない。

(三)  さらに、前記2(三)に認定のとおり、この税務調査ないし本件修正申告のされた時期の直後には、原告は、入院に備えて自己名義の預金をすべて払い戻して貸金庫に預けるなど、康夫らに対して異常なまでの猜疑心を抱いていたところ、原告は、大仙における登美子の給料が自分と同額であることについて康夫に対して不満を漏らしたことがあったり、前記離婚訴訟において登美子と康夫が不倫関係にあると主張してその立証に努めるなどしていることからすれば、少なくとも原告の主観においては、登美子は実の妹ではあるものの康夫側の人間として位置づけられ、警戒の対象となっていたと認められるのであり、係争各年分の確定申告や本件修正申告当時、原告と登美子の間において、原告が自己の財産に影響を及ぼす事項について、登美子に一任するような信頼関係が存したとは解し難い。

4  そして、右(一)ないし(三)の事情を総合すると、各確定申告も、経理担当者である登美子において、康夫の指示に基づき、申告名義を原告にし、確定申告にかかる税額の所得税については登美子において処理していたところ、税務調査により、さらに増額修正分の所得税を納付する段になって、原告と康夫との関係が険悪の度を増していた折から、原告名義で申告していることを奇貨として、実質的所得帰属者である康夫においてこれを納付せず、名義人である原告にその負担を強いているとの原告の主張も、一概に排斥することはできないのであり、前記2認定の事実を総合しても、原告が大仙の事業所得に関し、登美子に対して納税申告等の代理権を授与したことを推認するには足りないというほかはない。

5  なお、被告は、各年毎に原告の住居地宛に係争年分の確定申告の用紙や督促の通知書等が送付されており、原告がこれを知らないはずはない旨主張する。

しかし、成立に争いのない乙第一五号証(大塩一幸の聴取書)によれば、確定申告の用紙は、前年度の確定申告において記載された住所を基準に電算機に登録されており、これに基づいて発送されることが認められるが、昭和五五年分の確定申告書(乙第九号証)において、原告の住所地は、前記原告・康夫夫婦の住所地である富士市浅間上町八番七号ではなく、同所「2~8」と記載されていること、昭和五六年分の確定申告書(乙第一号証)、青色申告決算書等(乙第一〇号証、第一三号証の一ないし三)においても、同じく原告の住所は「浅間上町2~8」となっており、ただ、確定申告書においては「7~8」と付加されていること、昭和五七年分の確定申告書(乙第三号証)においては、原告の住所は、「2~8」が明確に「8~7」に訂正されている上、前年度電算登録された納税者番号及び住所が印字されており、その住所は「8~7」となっていることが認められ、これによれば、少なくとも昭和五七年分の確定申告用紙が原告の当時の住所地に送付されたことは認められるが、前記大塩聴取書によっても、昭和五六年分の確定申告書が原告の住所地に送付されたことは明らかでない。また、これらが住居地に到達したとしても、これらの郵便物を原告の知らない間に、同居していた康夫が受領し、処理をした可能性は、前記2及び3に認定の諸事情並びに弁論の全趣旨により推認される康夫の特異な行動傾向に照らすと、一概に否定し去ることができないというべきであるから、これをもって原告の関与を裏付けるに足るものではない。

6  以上のとおりであるから、結局、各確定申告及び本件修正申告について原告が登美子に対し代理権を授与したことを認めるに足りる証拠はなく、抗弁は理由がない。

三  以上によれば、原告の請求には理由があるから、これを認容し、訴訟費用について行訴法七条、民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉原耕平 裁判官 安井省三 裁判官 前田巌)

別表1

昭和56年分

〈省略〉

別表2

昭和57年分

〈省略〉

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